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マサトヰシグロシャムロック「G」@100年の共産党

グラビアアイドルのDVDをレビューしていくブログ。

ほしのあきさんの思い出(前編)

 と書くと彼女と個人的な面識や交流があったように思えるが、全くの他人である。当然だが。
 ほしのあきが入籍した。相手は以前から公式に交際が伝えられていた騎手・三浦皇成。年の差は13歳である。長きにわたりグラビア界の頂にいた彼女らしいニュースだ。
 遅咲きながら、その肢体とキャラクターで芸能界を席巻し、グラビアアイドル界に多大なる功績を残したほしの。そんな彼女がどのような芸能人生の軌跡をたどって来たか、私の寡聞な認識を踏まえて記録するのもいいかと思い、つらつらと書くことにした。

 私がはじめてほしののことを知ったのは、12年前にさかのぼる。行きつけの本屋で平積みにされていた写真集の一つに、彼女の作品があった。当時の芸名は星野亜希である。結局購入はしなかったものの、表紙は切ない表情を浮かべたほしのが両手を交差してバストを隠すというセミヌードであり、なかなかショッキングなデザインだったと記憶している。
 なぜ購入しなかったかというと、写真集の帯にあったプロフィルで「バスト78」と明記されていたからだ。1999年当時は巨乳ブームの真っただ中、まだ「貧乳」という言葉が定着する前のことである。ちなみにその帯のプロフィルにあった生年月日、確か「昭和53年」「1978年」のいずれかを明記していたと思う。私の記憶通りなら、当時からほしのは1歳サバを読んでいたことになる。
 ほしののデビューは、当時から3年さかのぼって1996年。広末涼子を輩出したコンテストの次の回のグランプリであった。
 
 その数カ月後、意外と早い時期に再びほしの(当時は星野)を見ることになる。当時人気絶頂のゴールデン番組ウッチャンナンチャンウリナリ!!」に彼女が出演していたのだ。番組の定番であった内村光良南原清隆が対決する企画で、ほしのは南原チームの一員として出演していた。
 対決に敗れたのは南原チームで、罰ゲームとしてチーム全員が水着姿になって繁華街で買い物をさせられることになった。ここでほしのも黒だったか灰色だったか、地味な配色のビキニを披露していたことを覚えている。なぜかほしの、内藤洋子ら女性陣の水着姿は引きの映像だったのだが(時間帯を考慮?)、ほしのの当時のスタイルは「78センチという割りには、結構胸がでかいような…」というのが私の感想であった。
しかしこの対決、罰ゲームは2週にわたって放送されたのだが、ほしのがこの回で何をしゃべっていたかは全く覚えていない。私の記憶力に問題があるんだろうが、それほど印象に残っていなかったのが正直なところである。
 とにかく「ウリナリ」という超人気番組に出演したほしのだが、これ以降私の見聞する範囲では全くメディアにその姿を見せなくなる。共演した内藤は、その後「ワンナイ」にレギュラー出演して脚光を浴びるが、ほどなく芸能界を引退した。今は実業界に転身しているという。

 久しぶりにほしのを目にしたのが、21世紀となった2002年ごろ。ただしその姿を拝見したのはテレビではなく、プロレス雑誌である。せいぜい切手より少し大きめのスチール写真だったが、インディーズのプロレス団体でウグイス嬢をしている彼女の姿が掲載されていた。このとき、芸名が「ほしのあき」とひらがなになったと私は認識する。このニュースを読んで、「へえ、まだやっていたのか」と素朴に驚いたことを覚えている。
 2002年当時のグラビア界がどういう状況だったかというと、まだ分裂前だったイエローキャブの一強時代といったところか。小池栄子佐藤江梨子、MEGUMI、根本はるみら多士済々。一方、同年の日テレジェニックを受賞した小倉優子ミスヤングマガジンをかちとった安田美沙子ら後のグラビア黄金時代を築くメンバーが注目を浴び始める時期でもあった。

 いわゆる「革命前夜」という時期において、既に25歳を迎えていたほしの(当時のプロフィル上は24歳)はいまだドサ回り営業の辛酸を舐めていた。いつのころかは定かでないが、所属事務所の電話番をしたこともあったという。
 そして翌年の2003年、私はファースト・コンタクトと同じような形でほしのと「再会」することになる。

 (つづく、一部訂正・加筆あり)