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マサトヰシグロシャムロック「G」@100年の共産党

グラビアアイドルのDVDをレビューしていくブログ。

ほしのあきさんの思い出(後編)

 前編のラストを書き終えた後に思い出したことがあったので、まずそれを書いておく。つくづく私は記憶力が乏しい人間だ。

 ほしのがインディーズプロレス団体のウグイス嬢をしていた時期よりも少し前だったか、私は深夜のテレビ番組「寝ドキッ!」で彼女を久々に見たことがある。
 「寝ドキッ!」とは深夜もド深夜の午前4時台に放送していた関東ローカルの番組だから、知らない人も多いと思う。基本は情報番組なのだが、最大の特徴は週替わりで若い駆け出しの女性タレントが出演し、イメージビデオ風の演出で彼女らを撮るという点。必ず水着に着替えさせたり、シャワーシーンを撮ったりするのが定番であった。1996年開始で、確か2002年ごろまでは続いたのではなかったか。時間帯が時間帯なので、出ていた子もほとんど無名のタレント(レースクイーンが結構多かった)ばかりだったが、釈由美子安めぐみといった錚々たるメンバーも出ていたようである。
 その「寝ドキッ!」にほしのが出演していたのを思い出した。当時既に「ほしのあき」に改名していた。詳しくは覚えていないが、この番組が、女の子が水着に着替えた際の定番で自身の3サイズを言う場面がある。そこでほしののバストサイズは「84(センチ)」と紹介されていた。以前は78センチだったバストサイズが6センチ増えている。まあ私はそのとき特に不自然とは思わなかった。「ウリナリ」で見たときの水着姿は「78センチよりはあるだろ」と思っていたので、サイズも修正したのかなーという程度の認識で、大して気に留めずにいた。余談だが、ほしのが出演していた回の「寝ドキッ!」は数年後の2006年、「24時間テレビ」で紹介されている。

 さてようやく、前編ラストの続きにたどり着くことになる。2003年のある日、本屋で写真集やイメージビデオのコーナーを訪ねた私は、目を疑う光景に立ち合う。
 あのほしのあきが、セーラー服に下は白のパンツ(シースルーのスカートを履いている)という衣装で表紙を飾っている写真集が積まれているではないか! タイトルも『H学園』というあられもないもの。体つきが以前と比べてムチムチとなっており、バストは88センチとクレジットされている。
 何も詮索したいわけではないが、とにかく今までとは別人のほしのであった。結局私は、類似タイトルのDVD「カゲキ学園H」を購入。当時よくあった「写真集のついでに撮った」感ありありの内容であったが、お尻が全開に食い込んでいたスクール水着のほしのがプールへ飛び込む雄姿は鮮明に覚えている。
 時あたかも、グラビア界は群雄割拠の戦国時代に突入していた。前述の小池、佐藤、MEGUMI、根本らイエローキャブ勢に加え森下千里井上和香熊田曜子といった抜群のスタイルを持つ強力な若手が参戦。加えて若槻千夏小倉優子らの強烈なキャラクターを持つ面々に正統派の雰囲気を持った夏川純安田美沙子、そして着エロ界からインリンが殴り込み…とここに書くだけでも血が沸き上がるような活況を呈していたのである。
 私の主観であるが、その中でほしのは、かなり後塵を拝する位置にいたと思う。上記の面々が既に活躍していたこともあるが、それに加えて年齢的なネックもあったからである。当時はまだまだグラビアアイドルの寿命は短く、どんなに売れっ子でも24〜25歳のうちに水着グラビアを卒業するのが定式化していた。2003年当時、ほしのは既に25歳となっていた(実年齢は26歳)。それでも彼女は腐ることなく、Tバックの過激な衣装を押し出したグラビアで存在感を増していく。

 ほしのは2004年秋、深夜番組「クイズプレゼンバラエティーQさま!」にVTR出演する。3人のアイドルが水泳競争をするのだが、アイドルはそれぞれ事前にマネジャーから「勝つと番組が大変なことになる」と注意される。その理不尽な状況下でどのアイドルが勝つかをスタジオで当てるという問題だが、その一人にほしのがいた。共演の2人は下村真理(後にMARIと改名)、相楽のり子であった。
 誰もゴールしたがらず、壮絶な譲り合い(ゴール手前で後ろ泳ぎ)の末に勝利したのは、「もう引退してもいいや」との思いで最後まで泳ぎ切ったほしのであった。この果敢な姿勢は、当時のネットでもかなり称賛された記憶がある。深夜とはいえ多大な好感度を勝ち得たほしのは、徐々に茶の間へその存在感を浸透させていく。また当時の彼女の代名詞だったTバックは、この年の『週刊ヤングサンデー』グラビアをもって封印されている。
 この04年末にはイエローキャブ事務所がお家騒動を起こし、分裂。イエローキャブの一強支配が崩れ、グラビア界は政界再編の時期に入っていた。

 日本にブログが爆発的に普及する2005年、ついにほしのは全国的な知名度を得るに至る。原動力は、「行列のできる法律相談所」出演だろう。「27歳(実際は28歳)のグラビアアイドル」という肩書は、本人の童顔も相まってインパクト十分だった。
 その後の活躍ぶりは、改めて説明するまでもないだろう。06年は飛翔の年となり、あらゆるテレビ、雑誌に出ずっぱり。「グラビアアイドル研究所」によると、その年の雑誌グラビアに最も登場したと紹介されている。同年にはドラマに進出。事務所の先輩・伊藤英明バーターとして「弁護士のくず」に出演する。クレジットは「星野亜希」。これの宣伝で行った横浜スタジアムの横浜×阪神戦の始球式は話題を呼び、youtubeで累計135万回もアクセスされた。年末には、武器ともいえる谷間全開のセクシー衣装で「紅白歌合戦」に出演を果たしている。

 ほしのの勢いは、その後もとどまるところを知らない。2007年には、遂に1歳サバを読んでいたことを告白した上、それを逆手に取るように「三十路グラドル」としてのアナウンスを強めていく。それもこれも、当時の彼女が辺りを払う勢いを有していたからにほかならない。2006年から07年は、「黒船」リア・ディゾンが日本グラビア界に来航するが、ほしのの人気は揺るがない。オリコン調査の「一緒に海に行きたいグラドルランキング」では堂々の1位に輝き、リアを2位に押さえ込んでいる。3位は安田美沙子だった。
 2008年以降、ほしのの活動は円熟味を増していくことになる。夏に発表したDVD「Fantasia」では過激化する現代IVの演出にチャレンジし、健在ぶりをアピール。Google検索では、「最も名前を多く検索されたグラビアアイドル」とされる。2009年、32歳となってもオリコンの「好きなグラドルランキング」では再び1位に輝く、まさに敵なしの状態であった。三浦皇成との熱愛がスクープされるのは、そのただ中の時期である。

 ほしのの異色ぶりを語る上で外せないのは、多くの若手グラドルのリスペクトを受けている点である。南明奈西田麻衣多田あさみといった有望グラドルは異口同音に「ほしのさんを目標にしている」と公言してはばからなかった。長きにわたり、グラビアアイドルという職業は女優もしくは歌手をめざす人々にとってのステップアップの一手段という認識が濃かった。「グラドルがグラドルを目標に掲げる」というのは、一昔前まではとても考えられなかったことである。あすのブレークを夢見る若手にとって、ほしのはそれほどまぶしい存在だったということだろう。

 グラドルの活動期間を飛躍的に伸ばした点でも、ほしのの功績は計り知れない。三十路グラドルとしてほしのと共闘する優木まおみは、ほしのの活躍をきっかけに25歳でグラビアデビューしたことを深夜番組「草野キッド」で公言している。かつて小悪魔系のグラビアで人気を博した宮内知美は2009年、当時34歳にして果敢にグラビアの世界へ復帰してきた。ほしのの先輩格としてグラビア界を席巻し、女優として活躍している井上和香も30歳を迎えた2010年、久しぶりのセクシー写真集を発表し昔ながらのグラビアファンを沸かせたことは記憶に新しい。
 福永ちな(1981年生まれ)はデビュー前、地元で「ほしのあきに似ている」と言われていたそうである。彼女もかなり遅いデビューながら人気グラドルとなったが、30歳を機に休業。その際に「ほしのさんのようになれなかった」というコメントを残したこと自体、ほしのの存在が後輩にとっていかに強大だったか分かるのではないだろうか。
 
 この1〜2年はAKB48ら秋元グループの浸食が著しいものの、グラビアアイドルの勢力が早々に衰退することはないと私はみている。なぜなら、綺羅星のごとく活躍した先輩グラドルたちが強固な足場を築き上げてくれたからだ。そして、その棟梁こそがほしのあきだったと私は確信している。
 以上のことをつらつら書き上げた末に、私はほしの、三浦両氏の結婚を祝うこととする。おめでとうございます。